老中のクビも飛ばす! 大奥「老女」たちの力
文京区「音羽」といえば、護国寺門前の細長い町だが、両側にお茶の水女子大学や筑波大学附属小中学校、東京芸術大学附属高校がずらりとならぶ文京地区。「お受験」ママにはよだれが出そうな町である。
じつはこの「音羽」という名前、享保年間(1716~1736)に大奥老女「音羽」に与えられた町というところから来ている。
いったい、御殿女中とはいかなる存在だったのか。
大奥の「老女」といっても、老人ではなく役職名で「御年寄」とも呼ばれる。その権勢は、
「幕府の老中に相当する、と彼女たち自身は信じて疑わなかった」
と老中松平定信の愚痴が伝えられているほど。
しかし、いくら定信が愚痴っても、大奥を取り仕切る筆頭女性である「老女」は、まさしく「家」としての将軍家の老中といえる存在だった。
たとえ将軍といえども老女には敬語を使い、それどころか大奥の縁側で庭を眺めていた将軍が、老女を見かけて、あわてて臥所(ふしど)に戻って正座した、という話があるくらいだ。
将軍にとっても、大奥「老女」は幕府の老中以上に怖い存在だったらしい。ワンマン社長が、家で女房が怖いのと同じである。
音羽付近の北側には「青柳」、南側に「桜木」という町もあったが、すべて大奥役人の拝領地である。
神田岩本町にあった「神田松枝(まつがえ)町」も大奥老女「松枝」の拝領地。現在の水天宮通りを挟んで「お玉稲荷」から南に2ブロックほどの範囲だが、町内会の呼称に残っている。神田祭の山車人形に「松枝」にちなむ「羽衣」の山車を出すためだという。
大奥の贅沢三昧を支えた不動産収入
「音羽」は護国寺の門前町で、「青柳」「桜木」「神田松枝町」も町屋で、そこから上がる家賃が老女の収入となった。
京橋には「常盤町」があり、元禄3年(1690)御女中の「大田」が受領したもので、市街地化が進んで「常磐町」と呼ばれた。鍛冶橋通りに面した「国立近代美術館フィルムセンター」付近である。
いまなら相当な家賃収入確実だが、当時の収入を知りたくなるのが人情。そこで第13代家定将軍の正室の御中老を勤めた女性の回想によると、
御年寄り勤役中は、いずれも町屋敷を賜ります。滝山(御年寄)などは飯田町で頂きましたから、年々地代が5両3分2朱ずつ上がりました。よい場所を拝領した人は、ずいぶん地代が上がりました。日本橋辺を賜りますと、8両にも9両にもなったといわれます
とのことである。
大奥女中筆頭の拝領地の収入は、5両から9両といったところだ。
むろん、これは給金(60両10人扶持、米50石、炭700俵、薪36把、黄金6枚)とは別の収入だし、1両で1人分の食費がゆうゆう1年間まかなえることを考えると、相当な収入ではある。
「音羽」などは護国寺門前の岡場所(私娼街)として殷賑を極めた。ただし、非合法な商売だから、公には茶屋の地代でしか上納されなかったに違いない。
とにかく大奥老女が衣食に贅沢三昧しても恬として恥じなかったのは、こうした経済的な裏付けがあるからで、天保の改革で水野忠邦が、大奥の贅沢を戒めると、姉小路という御年寄が切り口上にこう言い返した。
「あなたは妾がいるのですか、いないのですか?」
「…おる」と、水野忠邦が(おそらく)よろけそうに渋面で答えると、猛烈な勢いで姉小路が捲し立てた。
「およそ人間には男女飲食の欲がある。
これは避けがたいものだから、あなたがいかに倹約論を実行なさる方でも、ご自分の妾をやめるわけにはゆくまい。
しかるにわれわれども奥向きに勤めているものは、一生禁欲している。
その禁欲の代償に幾分の贅沢というものがあったところで、それを咎めるのは、あなたにも似合わしからぬことである」
すなわち、「禁欲もしないで何が倹約だ!」と怒鳴りつけられた。これには天保の改革で士民を縮み上がらせた水野忠邦も青くなったに違いない。
大奥に睨まれたら最後。
その2年後に水野忠邦は老中を辞めさせられて、再度復帰したが1年ももたずに辞職、さらに隠居のうえ蟄居謹慎を申し渡され、おまけに減封のあげく転封まで命じられた。ズタズタである。
大奥御年寄は、徳川将軍家の老中と思っているのだから、徳川家のためにならない者と考えると、陰微な手口で老中の首を切ったりする。
「音羽」「春日」「初台」…地名から大奥烈女たちの人生を偲ぶ
それはともかく、「音羽」「松枝」など、町を拝領する老女=御年寄りは、ひらがなにすると3字以上であることに気がつく。漢字は2字でもカナ3字名をもつのが御年寄(老女)の特徴(滝山、野村、浦尾、江島など)。それ以下は平仮名で2字、その上に「お」をつける。
老女の名は、源氏名ではなく役職名で、老女に就任すると「滝山」や「浦尾」と名乗る。したがって、「前の滝山」「今の滝山」などという言い方をする。
もうひとつ、御殿女中を「お局」様などというが、これは江戸時代の初期までのことで、その後は使用しない。その数少ないお局の名前も地名に残っている。
ひとつは渋谷区の町名と京王線の駅名になっている「初台」。この地は、徳川家康の側室「西郷局」に仕えて、2代将軍秀忠の乳母になった初台局の拝領地で、天正19年(1591)、現在の代々木4丁目と初台1丁目の境、山手通りの初台坂上、大蔵省印刷局の付近を中心に200石分の領地を与えられた。
当時の地名は代々木村である。
もう1人のお局にちなむ地名は、3代将軍家光の乳母「春日局」。近年は実母ではないかという説もある。
文京区の「春日」は、春日局に仕える下男30人に与えられた地名で、「春日殿町」と呼ばれて、その付近を「春日通り」も走る。これも正しくは「春日殿通り」となる。
ご当人は、一生大奥に生活したので、春日など前を通ったこともないかもしれない。
生前に建立した天沢寺(てんたくじ)が、没後、鱗祥院(文京区湯島)となり、その境内に春日局社がある。烈女らしく、寺の鎮守神となった。
明智光秀の家老、斎藤大蔵の娘で、結婚後に家出、大胆にも家光の乳母に志願した気性の強い女性である。肌は浅黒く、目つきが鋭かったので、彼女が鎮守神では鬼も魔物もビビって逃げるというものである。
とはいえ鱗祥院の広大な敷地は、明治になって東洋大学の前身「哲学館」に削られて、その後も道路拡張などで、いまや境内だった場所には区役所の出張所が建っている。
希代の烈女も、維新後の世の変化には勝てなかった…。
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