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今週の話材「噴火」

フランス革命を引き起こしたのは、浅間山の噴火だった!

[ 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター)]

昨年の御嶽山に続き、今度は鹿児島県の口永良部島で大規模な噴火が起きた。ひとたび火山が噴火すれば、私たちが受ける影響は甚大だ。火山災害は多くの人命を奪うだけでなく、ときに歴史を変えることもある。

フランス革命を引き起こしたのは、浅間山の噴火だった!

寛政4年の「島原大変」

 「島原大変肥後迷惑」は、江戸時代も後半の寛政4年(1792)に起きた。ことの始まりは雲仙の普賢岳の噴火である。正月気分が抜けきらない1月18日に噴火して以来、火山性地震が頻発。揺れること約3か月、いつしか人々は夜景のなかに光る溶岩を見物するありさまだった。そして桜も散った旧暦の4月1日のことである。

 山続きの眉山が長期にわたる地震に耐えかねたように、一瞬震えるとメリメリと轟音を発しながら崩落した。崩れたのは眉山の約3分の1。厚さ 109 メートル、幅・長さともに約2キロ。1メートルの厚さで広げると 72 キロ四方だから有明海をすっぽり包める(大森房吉「日本噴火史」より)。

 これだけの土砂が轟音とともに有明海になだれ込んだからたまらない。海の水位が一気に上がって、津波と化した。滝のような奔流が島原城下や半島の海岸線を襲って、島原領内だけで 9,818 人が溺死した。津波は対岸の肥後熊本領にも押し寄せて、熊本領の溺死者は 4,653 人、天草でも 343 人。合計して死者は 1万5,000 人に上った。

 この驚天動地の災害のために、地元島原藩主・松平忠恕は心労のため死亡してしまった。これが今に伝えられる「島原大変肥後迷惑」である。

宝永4年の富士山噴火

 火山の噴火があるたびに噂されるのが富士山大爆発。富士山噴火は、赤穂浪士の討ち入り事件から5年後のことである。その数年前から、江戸と出羽の大地震、浅間山噴火、江戸の群発地震と日本列島は揺れ動いていた。

 宝永4年(1707)10月。突然、伊豆半島から四国までの一帯を大地震が襲った。ついで11月の22日には激震が伊豆や小田原を襲った。
 その翌朝のことである。大音響とともに、富士山の八合目付近の南東側山腹を火災が突き破った。富士山大爆発である。その模様を足柄山麓の住民が小田原藩にこう報告している。

「激震と響がすさまじく、地をくつがえすほど雷が鳴り、太陽は闇夜の星の光のようだった。人はもちろん牛馬まで命がないものかと肝がつぶれた」

 その日、江戸は晴天だった。ドーンという重い音とともに戸や障子が震えた。新井白石が当日の江戸の模様をこう記している。

「正午ごろ雷が鳴った。雪が降っているように見えるので、よく見ると白い灰である。西南のほうには黒雲がわき、雷の光がしきりにしていた」(「折たく柴の記」)

 午後2時頃になると、江戸は白い灰で埋まり、
「空がはなはだしく暗いので、あかりをつけて進講した。午後8時ごろに灰の降るのはやんだが、大地が鳴動したり、あるいは震えることがやまなかった」(同上)

 江戸の町に降りそそいだ灰は3センチから6センチ積もったが、その後2週間にわたって降り続けた。駿東群小山町は3メートルの火山灰に埋もれて全村壊滅。湖南地方西部一帯は火山灰が40センチ以上も積もり、田畑が全滅。やがて雨が降ると積もった灰が川に流れ込んで堆積し、洪水が頻発した。白石はこうも書く。

「世間の人は全員咳に悩まされた」

 ともあれ富士山が噴火すると、25 キロ圏内に3メートル以上の灰が降り積もり、60 キロ以内に 40 センチ前後の灰が積もる。この範囲内の農業は壊滅状態である。幕府は総額 49 万両(400億円)の災害対策費を投入して復興にあたったが、それでも周辺の農村が完全に立ち直るには 40 年の歳月が必要だった。

天明3年の浅間山噴火

 御嶽山の噴火でも観測された火砕流。1991年の雲仙噴火では 43 人の犠牲者を出した。その惨状が地下から生々しく発掘されたのが浅間山麓の群馬県の嬬恋村鎌原地区である。

 天明3年(1783)の春から浅間山は噴火を繰り返していた。7月8日のことである。地元の「無量院住職手記」が言う。

「この日、天気ことほかよき哉なり。鳴音静かなり」

 噴火は小康状態。村民は降ってくる焼石に備え土蔵のなかでしばしば仮眠をとっていた。午前11時。突然浅間山から火砕流が噴き出した。それは山腹の土砂を巻き込んだ熱泥流となって、火口から15キロも離れた鎌原村を襲った。住職が書く。

「ヒッシオ、ヒッシオ、ワチワチと異様な音を響かせて鎌原村へ押し寄せてきた」(無量院住職手記)

 油断していた矢先のことである。

「足の弱い老人たちは遠くへ逃げられず近くの高台に登ったが、浅間押しはそちらに来ず、高い山に逃げようと遠くに走った若者たちを追って家を乗り越え、木を倒した熱泥流はたちまち彼らに追いついてのみ込んでしまった」(「天明浅獄砂降記」)

 と明暗を分けた悲劇が各地で展開した。鎌原村全村 93 戸が埋没し、住民 597 人中 466 人が死亡。死亡率約 80 %で、ほぼ全滅である。

 村の観音堂が坂を登ってさらに 50 段の石段を登ったところにある。ここに駆け登った者は助かったが、腰の曲がった老母を連れて観音堂へ急ぐ娘がいた。娘は老母を背負って坂を駆け上がり、石段を登りかけた。その時、熱泥流が押し寄せてきたのである。この2人は昭和54年の発掘調査で、石段の登り口に往時のままの姿を197年ぶりに現わして関係者の涙を誘った。

 浅間山噴火の悲劇は火砕流だけではなかった。

 空高く舞い上がった噴煙が成層圏を覆い、北半球の気温を年間1.3度下げた。冷夏となり、その後4年間にわたって各地に飢饉を続発させた。餓死者20万人と言われる天明の飢饉である。その影響はヨーロッパ各地にも及び、冷夏と厳寒の繰り返しで凶作が続き、フランスではついにフランス革命を引き起こした。

 火山噴火は一地域だけではなく、地球規模での災害なのである。

▼「今週の話材」
著者 : 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター) 1949年、神奈川県に生まれる。日本大学芸術学部映画学科で映画理論を専攻。放送作家を経て、『やじうま大百科』(角川文庫)で雑学家に。「万年書生」と称し、東西の歴史や民俗学をはじめとする人文科学から科学技術史まで、幅広い好奇心を持ちながら「人間とは何か」を追求。著書に『「散歩学」のすすめ』(中公新書クラレ)、『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた サムライと庶民365日の真実』(講談社プラスα新書)などがある。
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