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今週の話材「食通」

盛蕎麦、握り寿司…江戸っ子のやせ我慢が生んだ三ツ星グルメ

[ 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター)]

「死ぬ前に、1度でいいから汁をたっぷりつけて蕎麦を食べたかった」といってこと切れた江戸っ子がいたとかいなかったとか。今回は江戸の食通らが愛した江戸前の食べ物について。

盛蕎麦、握り寿司…江戸っ子のやせ我慢が生んだ江戸発祥の食文化

盛蕎麦の汁が塩辛いのには理由がある

 関西人にいわせると、関東の蕎麦は、

「醤油を飲んでるようで、よう汁なんか飲めませんわ」

 というほど味が濃い、というか塩辛い。で、江戸の蕎麦は「盛蕎麦」が基本で、汁をちょいとつけて、ズズルーと飲み込む。
 丼に入った蕎麦は「田舎蕎麦」「馬方蕎麦」といって江戸っ子は軽蔑したものだ。

 その塩辛い江戸前の蕎麦には発祥地がある。

 今でいえば西浅草 3 丁目 12 番 13 号、西浅草郵便局の付近である。そこに江戸の頃、称往寺という寺があった。由緒正しき浄土宗の寺なのだが、江戸前の蕎麦はここから始まった。

 明暦( 1655 ~ 1658 )頃のことである。この称往寺の数ある塔頭(たっちゅう)のなかで、道光庵の庵主は蕎麦が大好物で、自分でいろいろ工夫して手製のそばを作っては食べていた。

 それまで蕎麦といえば、そば粉を湯で煮るか、炊くか、団子のように丸めて食べたものだが、いつの頃か道光庵主は、それを手打ちで細長く切って、蒸篭で蒸すことを覚えた。その手際が商売人以上で、庵主の手製の蕎麦が評判となった。

 もちろん和尚が作る蕎麦だから、仏家の常として生臭いものは厳禁で、魚のダシなど使わない。だから汁は辛くて、舌がまがるほどの辛さである。

 そんな辛い汁がうまいはずはないのだが、庵主のお手製という権威もあって、「うまい、うまい」とわかったような顔をして江戸っ子は見栄を張って食べたあげく、それを吹聴したからたまらない。自称食通が我も我もと押しかけて、強いて一椀を所望した。

 はじめは自慢もあって和尚は食通連の望みを入れていたが、ついには念仏を唱える暇もないほど蕎麦通が集まるありさま。蕎麦職人が忙しくて僧侶の修行などできない。いくらなんでも蕎麦作りで修行の名目が立つはずもないので、ついに片っ端から断ってしまった。

 繁盛しすぎて閉店したわけだが、以来、称往寺の名よりも「蕎麦切寺」のほうが名高くなった。それ以来、江戸間の蕎麦は、辛いのを我慢して、ズズルーとやらねば通とはいわれなくなった。

一文無しの道楽者が探求した“江戸前の寿司”

 寿司の握りも江戸の産物で、その発祥の地は本所元町。考案者は与兵衛なる人物で、寛政年間(1789~1801)に日本橋の霊岸島に生まれたチャキチャキの江戸っ子である。9歳の頃から浅草蔵前札差の家で下男として十数年勤めた。

 その間、すっかり蔵前風を身につけて、ばかに持ち物に凝り、破天荒な贅沢といわれる銀煙管を奉公人の分際で身につけ、それを洒落た筒の中からスポンと抜き出して、納まった顔つきをしてみせたので、主人に叱られたりもした。

 その調子で、奉公を終えたときは一文も金がない。そんな嬉しい心がけの男である。

 好きな道はやめられない根っからの江戸っ子で、何の商売をしても通人趣味から離れないので、必ず失敗する。涙が出るほど晴れ晴れしい江戸っ子ぶりで、ついに中年にして徒手空拳の身となった。

 そのとき与兵衛がつらつら思うに、面白くないのは江戸の寿司がすべて大阪流の押し寿司であることだった。押し寿司たるもの、四角な鮨桶の中に飯と具を詰め込み、その上に板と重しを載せて3、4時間は圧迫してから取り出す。

 いかにも関西人のまだらっこしいシロモノで、これがチャキチャキの江戸っ子には癪の種だ。通人の与兵衛としては、徒手空拳でやることもないから、注文したら即座に、

「へい、お待ちどう」

 と出てくる寿司作りを探求してみた。

 飯を炊くたびに種々工夫を試み、握り方を試行錯誤し、やがて文政( 1818 ~ 1830 )の初年には、今日のような握りを完成した。

 とはいえ、徒手空拳で始めたので金がない。屋台店で握って、それにしては高級な山本の茶を出す通人ぶりの体質は未だ抜けず、これがかえって話題となって、食い道楽はもとより江戸っ子の人気を呼んだ。

 これで一気に与兵衛は押し寿司への溜飲を下げた。

寿司屋も知らない? 江戸前寿司のアレコレ

 道楽者時代に身につけた鑑識眼で、えり抜きの上白米をほどよく炊いて、キュッと握りしめ、その上に涙のこぼれそうな摺わさびをおいて、新鮮な魚の厚手の切り身をのせる。これを客はつまんで、醤油につけて、パクリとやって、

「こいつは乙だ」

 と、ワサビの辛さで目をしわにしてクビを振ってみせた。たれた醤油を指の股のほうから逆に舐め上げてみせる。いまやこんな仕草をすると、「行儀が悪い!」と叱られそうだが、これが江戸前の寿司の食べ方なのである。

 とにかく与兵衛は、朝は4時から夜中の零時まで握りっぱなしでも注文は後を絶たない。ついに裏長屋から出て、表通りに店を出し、札差業者や旗本から岡場所にまで出前した。

 徒手空拳の与兵衛が握りで成功したとは落とし話みたいだが、下男のくせに通の道に入ってスッテンテンになった嬉しい心意気のなせる革命であった。

 ところで寿司といえば「青柳」というネタがある。これを「バカ貝」といって江戸では食べたりしなかったが、別に貝として知能が劣っているからバカ貝ではない。

 正しくは「場替え貝」で、一斉に生息地を替えてしまう習性をもっている。これを「青柳」と呼ぶのは、千葉県市原の青柳という小河川の河口部で採れたからだろうという。寿司屋で「バカ貝」というと怒るけど、ホントは意味を知らないだけだ。

 いずれにしても江戸は魚を生で食うようになった時代といえる。それだけに、映画やテレビにお馴染みの女性の「持病の癪」が頻発するようになった。

 江戸では「胃から胸に突然痛みが差し込む」持病の持ち主が多かったのは事実で、日記類にも頻繁に登場する。握り鮨をはじめ生魚を食べるせいである。

 生魚にはアニサキスと呼ばれる線虫が寄生している。その幼虫はサバ、イカ、ニシン、カツオ、タラなどに寄生して、それを食べた人間の胃壁や腸壁に潜り込んで寄生する。そのとき激烈な痛みが胸、下腹部などに差し込む。で、「御女中、いかがなされた?」「持病の癪で…」という時代劇のお馴染みの場面となる。今は抗生物質で治癒する。

 アニサキスの幼虫は熱に弱く摂氏 60 度なら数秒で死亡、低温なら摂氏 2 度で 50 日間生きていられるが、マイナス20度では数時間で死亡する。

 冷凍物を食べている現代のほうが、味は落ちても安心ではある。

▼「今週の話材」
著者 : 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター) 1949年、神奈川県に生まれる。日本大学芸術学部映画学科で映画理論を専攻。放送作家を経て、『やじうま大百科』(角川文庫)で雑学家に。「万年書生」と称し、東西の歴史や民俗学をはじめとする人文科学から科学技術史まで、幅広い好奇心を持ちながら「人間とは何か」を追求。著書に『「散歩学」のすすめ』(中公新書クラレ)、『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた サムライと庶民365日の真実』(講談社プラスα新書)などがある。
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