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誰も知らない名画の読み方 第4回

五姓田義松「人形の着物」(1883年・油彩)

[ 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター)]

美術館ほど頭をリフレッシュしてくれる場所はない。なにより画家たちが生命を賭けた作品を目の前にして、この絵で何を伝えたかったのか? その筆致や色彩などから思いをめぐらし、歴史的存在の人物と対話出来る。そんな場所は美術館ぐらいのものである。「美術館は高尚な場所」と敬遠しているあなたに、脳ミソを刺激する”野次馬式”名画の鑑賞法をお教えしよう。

五姓田義松の「人形の着物」は驚くべき国宝級の逸品である。その完璧な油絵の技術のみならず、リアリズム絵画としても完成している。絵画の左下にうずくまる猫は女性の性を象徴し、人形を手にした幼い孫と老婆は、貧しい女性たちの運命を表現している。これほどの人物が日本美術史から欠落した理由を探ってみたい。

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(笠間日動美術館 蔵)

日本人が知らない天才画家「五姓田義松」とは何者?

 幕末の江戸で、攘夷浪士による英国公使館襲撃事件があった。その様子を描いた「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」の挿絵「浪士乱入」は、今も多くの歴史の本に掲載されている。これを描いたのは、同紙の特派員チャールス・ワーグマンだった。

 ワーグマンは「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」の特派員であるだけでなく日本の西洋画の師匠でもある。

 今回、ご紹介する五姓田(ごせだ)義松のみならず「鮭」の絵で知られる高橋由一もワーグマンの教えを受けた。幕末の開港地・横浜に住むワーグマンのもとへは、洋画を学ぼうとする者が後を絶たなかったが、そのつど、

「義松先生のところに行け」

 と断ったほど五姓田義松は洋画を究めた弟子だった。そのとき義松は弱冠20歳前後に過ぎない。

 ワーグマンは新聞に、

「五姓田義松の偉さを日本人は知らない」

 と書くほど義松の天才ぶりに舌を巻いた。私もまた同じ口吻を覚える。ここにご紹介する日動美術館所蔵の五姓田義松の「人形の着物」は驚くべき国宝級の逸品である。

 明治16年(1883)、パリの美術アカデミーの最高峰「サロン」で入賞したもので、むろん日本人初入賞の歴史的な作品でもある。

 その完璧な油絵の技術のみならず、リアリズム絵画としても完成している。絵画の左下にうずくまる猫は女性の性を象徴し、人形を手にした幼い孫と老婆は、貧しい女性たちの運命を表現している。

 パリ滞在3年で若干29歳の五姓田義松は、寓意の表現方法までも習得したことがわかる。

 これほどの人物が日本美術史から欠落した理由を探ってみたい。

日本の西洋画は「五姓田義松」から始まった!

 五姓田義松は、幕末の安政2年(1855)、元・紀州藩士の絵師・五姓田芳柳の二男として江戸で生まれた。安政の大地震の年である。

 家は潰れたが母子は無事で、高輪の長屋に引っ越した。その地で義松は8歳まで武士の子として柔術と剣術の鍛練一筋だった。

 父の芳柳は、紀州徳川家を辞し、長崎で洋風画を見て以来、その魅力にとりつかれていた。元治元年(1864)からは横浜で考案した「横浜絵」が評判となり、多忙な日々を過ごしていた。
 横浜絵とは、客の肖像や横浜風景を、絹地に日本絵の具で写実的に描いた外国人向けの日本土産である。貿易船で往来する外国人から肖像写真を預かり、帰国するまでに描き上げるので忙殺された。

 すでに横浜では、下岡蓮杖が写真店を野毛坂と弁天町に開業しており、英国の画報紙の特派員ワーグマンも住んでいた。ワーグマンは新聞の挿絵画家だったが、当時としては油彩・水彩をこなす唯一の西洋画家でもある。

 慶応2年(1866)、父の芳柳は、義松を洋画家にするべくワーグマンに弟子入りさせた。時に五姓田義松は数えで12歳である。まだ子供なので、ワーグマンも軽い気持ちで引き受けたにちがいない。

 ところが義松は、子供ゆえの柔軟さと素直さで、西洋画の手法と技術を次々と吸収し、その上達ぶりは驚嘆すべきものだった。

 半年後の慶応2年暮れ、義松より30歳年長の高橋由一もワーグマンに弟子入りするが、その洋画技術の吸収ぶりは比較にならない。翌慶応3年、義松は「13歳の自画像」を油絵で描いてのけた。立体感にあふれる作品で、わずか入門1年にして西洋画の基本を完全に修得したことがわかる。

 大政奉還を目前にした年だが、西洋画を的確に会得した最初の日本人が出現したのである。それは驚嘆すべき才能で、ワーグマンをして、

「(高橋)由一などの遠く及ぶところではない」

 とまでいわしめた。「神童」と呼ばれ、仮名垣魯文から「天才」と謳われたのも不思議ではない。日本の西洋美術の歴史は、まぎれもなく五姓田義松の突出した天才的作品から始まったのである。

西洋画の師・ワーグマンを激怒させた維新政府

 すでに19歳にして五姓田義松は、日本で唯一人の西洋画家として「先生」と呼ばれていた。その風貌は、真ん中で分けた散切り頭、目もと涼しい白皙かつ寡黙な青年だが、外出時には縞の袴に方歯の下駄で、腰には絵の具を入れた革製の袋を差し、武士の風情を残していた。弟子のひとりの述懐では、

「とても進歩した洋画を研究する人とは思いもよらぬ姿で、少し蛮からの風がありました」(平木政次談「明治初期洋画壇の回顧」)

 とある。すでに時代は明治に代わり、五姓田義松は洋画家として弟子もいたが、習作にいそしみ、父の横浜絵も手伝う日々で、生活費は父の芳柳が援助していた。

 文明開化の中心は東京へ移り、父芳柳は明治6年(1873)、義松は翌7年、それぞれ東京へ転居した。

 維新政府の「文明開化」は名ばかりで、洋画家を必要としない。わずかに地図の作成や偵察写真代わりに写実的デッサン求め、国家行事を荘厳に記録・表現するため洋画技術を要しただけである。
 そのため幕府開成所の図画教授の川上冬崖は、明治政府の陸軍兵学寮に出仕していた。

 明治8年、21歳の義松は川上冬崖の斡旋で、陸軍士官学校図画教師となった。月給50余円の薄給だが、父の芳柳は喜んだ。それを弟子から聞いたワーグマンは、満面に怒気を生じて、

「嗚呼、何たることだ。日本の官省は人間の価値を知らない。なぜ芳柳は子供を大切にしないのか。
私は義松が12歳の頃から、その才能を知っている。温雅な性格と豪胆な努力も。その肖像画も風景画も私など及びもつかない。ましてや冬崖、由一など遠く及ばない。
それほどの才能なのに父である芳柳は、薄給を喜ぶなど、実に日本一の馬鹿である、官省も同じだ。貴重な宝石を炭団の値段に換えるとは、実に不愉快である。思うに日本政府は、未だに真の奴隷の束縛を解かないのだろう」(明治8年3月2日付「横浜毎日新聞」より要約)

 少年時代から義松の才能を育ててきたワーグマンの弟子への愛情がひしひしと伝わる。
 ワーグマンは横浜で「ジャパン・パンチ」を発行して、後に同地に骨を埋めるが、日本の西洋美術史へは最も貢献した人物である。その価値も貢献も忘れられている。

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著者 : 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター) 1949年、神奈川県に生まれる。日本大学芸術学部映画学科で映画理論を専攻。放送作家を経て、『やじうま大百科』(角川文庫)で雑学家に。「万年書生」と称し、東西の歴史や民俗学をはじめとする人文科学から科学技術史まで、幅広い好奇心を持ちながら「人間とは何か」を追求。著書に『「散歩学」のすすめ』(中公新書クラレ)、『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた サムライと庶民365日の真実』(講談社プラスα新書)などがある。
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