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誰も知らない名画の読み方 第5回

エドガー・ドガ「浴槽の女」(1891年頃、パステル・カルトン)

[ 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター)]

美術館ほど頭をリフレッシュしてくれる場所はない。なにより画家たちが生命を賭けた作品を目の前にして、この絵で何を伝えたかったのか? その筆致や色彩などから思いをめぐらし、歴史的存在の人物と対話出来る。そんな場所は美術館ぐらいのものである。「美術館は高尚な場所」と敬遠しているあなたに、脳ミソを刺激する"野次馬式"名画の鑑賞法をお教えしよう。

今日、ドガは「踊り子の画家」で知られる。これもドガが切り拓いた美の世界だが、他にも多様な題材と技法で美を探求している。円熟期に追求したのは「浴槽の女」の連作だった。こちらは純粋な造形美を探求したドガの驚くべき境地ともいえる。この「浴槽の女」を所蔵している美術館が広島市の中心部にある。「ひろしま美術館」である。

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(公益財団法人ひろしま美術館 蔵)

「絵画とは美による苦悩の学問です」(ドガ)

 ピカソを評価する批評家コキヨがドガについて書いている。

「みんなが話題にしてばかりいるので、もういい加減にしろと言いたい」

 ドガが亡くなって7年後(1924年)の言葉で、画家たちの間に長く話題になったほど驚くべき美の開拓者だった。

 今日、ドガは「踊り子の画家」で知られる。これもドガが切り拓いた美の世界だが、他にも多様な題材と技法で美を探求している。

 円熟期に追求したのは「浴槽の女」の連作だった。こちらは純粋な造形美を探求したドガの驚くべき境地ともいえる。この「浴槽の女」を所蔵している美術館が広島市の中心部にある。「ひろしま美術館」である。

 19世紀最大の画家ドガの作品を「ひろしま美術館」で対面できる幸運は、いくら筆を費やしても表現できない。それは生涯独身で美と格闘した孤独な画家と対話できる数少ない機会だからである。作品を前に、ドガの言葉を思い出して欲しい。

「絵画とは美による苦悩の学問です」

 これほど悲壮な決意で芸術と向き合った画家も珍しい。 その作品を知るには、ドガの人生を一瞥しておく必要がある。

銀行家の父と、母は裕福なアメリカ商人の娘

 ドガは1834年に銀行家ド・ガス家の長男としてパリで生まれた。母はアメリカのニューオリンズの綿花商人の娘で、11人の子供を生むと、ドガが13歳の時に他界した。
 銀行を開設した祖父はイタリアのナポリに住む。ドガは名門ルイ・ルグラン高校で学んだが、得意科目はラテン語、ギリシヤ語、歴史、朗読とあり、すでに後年の劇的で計算された技巧と様式美への好みがみえる。既にデッサンで一等賞を得た。

 パリ大学法学部に進学するが、その時点でルーブル美術館での模写の許可を得た。法学部の学生エドワード・ド・ガス(ドガ)は、ルーブル美術館や国立図書館版画室でデューラー、ゴヤ、レンブラントなど15世紀から18世紀の各派の巨匠(オールドマスター)の模写に熱中した。
 ついに法学部は2年で放棄して、1855年にエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学。美の探求に専念する。

 20歳の頃、父親の友人とともに晩年の新古典派の巨匠アングルを訪ねる。アカデミーの会長も務めた70歳半ばのアングルは、別れ際にアパートの階段でめまいを起こし、若いドガが両腕で受け止めた。それからドガは走ってアングル夫人を呼びに行った。
 翌日、アングルの家を見舞いに訪れたドガが、画学生であることを伝えると、アングルは次のようにアドバイスした。

「線を描きなさい…たくさんの線を。記憶によってでも、実物を見てでもよいから」

 あるいはドガが持参した習作のファイルを見て、

「お若いの。実物を見て描いてはいけない。つねに記憶か巨匠の版画によってだ」

 この言葉はドガにとって「聖書」の箴言となり、よりデッサンと構図に励むことになる。

イタリアでの出会い、新古典主義のくすんだ色彩からの脱却

 エコール・デ・ボザール(国立美術学校)の授業は、ドガには飽き足らない。既に18歳から描いた兄弟や友人の肖像画は、新古典主義の手法を用い、「厳密な意味でドガは初期作品がない」といわれるほどの技能を持っていた。

 『ボヴァリー夫人』の著者フロベールの言葉に「ローマほどすばらしい美術館はない」とあるが、当時、芸術の都はローマだった。
 パリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の学生は、ローマ留学の奨学金が出る「ローマ賞」を求めて勉学に勤しんだ。留学後は政府が作品を買い取り、有力な蒐集家を紹介されて画家としての将来も保証される。ローマには、留学中のフランス美術アカデミーの研究員やフランス人画家の住むコミュニティまであった。

 フランス最高の美術教育機関は、イタリア古典美術を修得した職業画家養成校でしかない。絵画は、豪壮な建築の壁や国家を荘厳する荘重な家具のような位置づけである。

 ドガは国立美術学校の学生だが、在籍期間が不明なほど早々と授業に見切りをつけて、単身イタリアに向かった。ナポリ在住の祖父や親戚の別荘が各地にある。ローマ賞など頓着せずにイタリアに旅立ったドガは、22歳であった。

 レオナルド・ダ・ビンチをはじめミケランジェロ、ラファエロ、ジョットなど巨匠の作品に感動しながらも、ドガはそれら作品の表現、忘れられた技法、隠された技法を探り出し、そこに一定の型を発見すると、その上に独自のスタイルを加えて模写をした。

 イタリア滞在は3年近くにわたり、その地で画家ギュスターヴ・モローと親しくなる。モローは神話や聖書に詳しく、またドラクロワの色彩の美しさを探求する画家である。
 やはり古典の教養豊かなドガと話は弾み、親交を深める中で、ドガはモローが語るドラクロワの色彩の美に開眼する。

 アングルの新古典主義のくすんだ色彩から、ドガは解放される。

 アングルの「線を描きない」の言葉で正確なデッサンを体得し、ルーブル美術館やイタリア各地の巨匠の作品から学んだ劇的構図と技法の数々、それに色彩の美を修得して、ドガは生涯を通じて駆使する技能を獲得した。
 8歳も年上の画家モローの言葉「フィレンツエで芸術に従事する者の悲しみと空虚」を実感できるほど、ケタ外れの芸術的感性の持ち主ともなった。

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著者 : 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター) 1949年、神奈川県に生まれる。日本大学芸術学部映画学科で映画理論を専攻。放送作家を経て、『やじうま大百科』(角川文庫)で雑学家に。「万年書生」と称し、東西の歴史や民俗学をはじめとする人文科学から科学技術史まで、幅広い好奇心を持ちながら「人間とは何か」を追求。著書に『「散歩学」のすすめ』(中公新書クラレ)、『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた サムライと庶民365日の真実』(講談社プラスα新書)などがある。
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