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誰も知らない名画の読み方 第3回

ピエト・モンドリアン「Abstraction creation art non figuratif《コンポジション D》」(1932年・版画)

[ 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター)]

美術館ほど頭をリフレッシュしてくれる場所はない。なにより画家たちが生命を賭けた作品を目の前にして、この絵で何を伝えたかったのか? その筆致や色彩などから思いをめぐらし、歴史的存在の人物と対話出来る。そんな場所は美術館ぐらいのものである。「美術館は高尚な場所」と敬遠しているあなたに、脳ミソを刺激する”野次馬式”名画の鑑賞法をお教えしよう。

モダンなビルあるいは冷蔵庫など家電製品、システム・キッチンなどのシンプルなデザインは、オランダの画家ピエト・モンドリアンの献身的な創作活動を源流とする。もしもモンドリアンの抽象絵画への孤高の努力がなかったら、家電製品もビルも看板もアールデコを抜け出せず、私たちの生活の周囲は装飾だらけになっていたかもしれない。

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(兵庫県立美術館 蔵)

モンドリアンの抽象絵画に現代生活空間の原点が!

 抽象美術は難解に思われがちだが、それなしに今日の生活空間は存在しない。想像以上に抽象美術は身近な存在なのである。
 モダンなビルあるいは冷蔵庫など家電製品、システム・キッチンなどのシンプルなデザインは、オランダの画家ピエト・モンドリアンの献身的な創作活動を源流とする。もしもモンドリアンの抽象絵画への孤高の努力がなかったら、家電製品もビルも看板もアールデコを抜け出せず、私たちの生活の周囲は装飾だらけになっていたかもしれない。

 モンドリアンの代表作は美術の教科書でご覧頂くとして、ここでは兵庫県立美術館所蔵の作品をご紹介する。シンメトリー(左右対称)を否定し、赤・青・黄の三原色のみを用い、それを黒の平行線と垂直線で直交させて分割している。作品に枠もないことに注目して欲しい。これはモンドリアンが完成させたものである。次のように謙虚かつ誇らしげに回想している。

「わたしの知るかぎり、絵画を額縁から取り出した最初の人間こそ、わたしであった」

 それでは格子模様は何を意味するのか。それは生命の美を追求したモンドリアンがたどり着いたリアルな現実だった。モンドリアンの目に見える風景を抽象化したものである。

「自然の生きた美は写し得るものではなく、ただ表現し得るだけ」

 ピエト・モンドリアンは、1872 年(明治 5 )3 月 7 日、オランダ中部のアメルスフォールトに生まれた。父は熱心なカルビン派の教育者で、日曜画家でもあった。叔父は職業画家なので、ピエト・モンドリアンは子供の頃から画家を志望したが、厳格な父は断固反対した。モンドリアンが画家になるまで支援する資力がないので、威厳ある定職に就くことを求めたのである。

 画家志望のモンドリアンは父へ反発し葛藤したが、17 歳で初等学校の教師となり、20 歳で中等校教師の国家試験にも合格する。どちらも「図画教員」である。

 この職業選択にモンドリアンの「バランス」志向を見ることができる。ただしモンドリアンのバランス感覚は、左右対称の安定美を否定する「動的バランス」なので、中学図画教師の免許を手にするや、アムステルダムに引っ越して、国立美術学校で学んだ。卒業後は、入学時に免除された「予備、素描過程」の夜学に通う熱心さで、5 年間も在籍した。

 その間の生活費は、美術館の名画の模写や肖像画、教科書用の精緻な挿絵、風景画などを売って捻出したので、モンドリアンの写実的具象画の力量のほどがわかる。
 職業画家で生計を立てる技量を持つモンドリアンだが、「自然の美しさは再現できるものではない」ことに気づいていた。彼の文章によると、

「芸術は自然の模写では決してなかった。なぜなら自然の生きた美は写し得るものではなく、ただ表現し得るだけだ。自然の生きた美を表現するには画家の主観を克服しなければならない。そこで抽象芸術が生まれた」

 と、美の普遍的原理を追求し続けた。彼が目指した画家とは、美の求道者である。

 最初の転機は 1908 年(明治 41 )、36 歳の頃にやってきた。同国人のファン・ゴッホが燃え尽きた年でもある。「陽に映える風車」と題する作品で次の試みをした。

「私の絵でまず変革せねばならないのは色彩だった。私は純粋な色彩を求めて自然の色彩を放棄した。絵画が自然の美を表現するために新しい道を発見しなければならないことを私は直感的に感じていた」

 以後、純粋な三原色と無彩色(黒・白・灰色)のみ用いた大胆な色彩と垂直線を強調した風景画や静物画を次々と描き、それらを 1909 年のアムステルダム市立美術館展に出品した。
 結果は惨憺たるもので、批評家は「病める異常な人間の作品」「狂乱」「驚愕すべき失敗作」と酷評したが、前衛的な「デ・テレグラーフ」紙の批評家コンラッド・キッケルトのみは強力な支持をした。モンドリアンの孤独かつ持続的な情熱を支えたのは少数の炯眼な理解である。

 自然美の背後の物理的な関係を絵画的なものへ置き換えようと苦闘するモンドリアンを、批評家キッケルトは惜しみなく支援した。酷評されたモンドリアンを美術界の重鎮と並んでアムステルダム国際美術展の運営委員に就任させて、以後も作品発表の場を確保する。モンドリアンにパリ行きを勧めたのもキッケルトだった。

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著者 : 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター) 1949年、神奈川県に生まれる。日本大学芸術学部映画学科で映画理論を専攻。放送作家を経て、『やじうま大百科』(角川文庫)で雑学家に。「万年書生」と称し、東西の歴史や民俗学をはじめとする人文科学から科学技術史まで、幅広い好奇心を持ちながら「人間とは何か」を追求。著書に『「散歩学」のすすめ』(中公新書クラレ)、『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた サムライと庶民365日の真実』(講談社プラスα新書)などがある。
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