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今週の話材「受験」

時代が変われば学問の価値も変わる…幕末の受験エリートたちが味わった悲哀

[ 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター)]

受験シーズンである。受験生を抱える家庭ではなんとも気鬱な季節だ。暴力を競う戦国時代が終わり、平和が続いた江戸後期にも、やはり多くの若者が試験と勉強で苦しめられた。その厳しさは現代の比ではない。今回はそんな江戸の受験事情を。

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江戸時代の武士も患った「受験ノイローゼ」

 まずは岡山藩のある事件を紹介しよう。岡山藩は当時も教育熱心で知られる藩で、藩士は全員藩校に通うことが義務づけられていた。

 ときは寛政6年(1794)。ところは岡山城下。中川権左衛門という武士の弟に四郎七という者がいた。日夜学問に励む典型的な岡山藩士だが、それが高じたせいか異常をきたし、座敷牢に閉じ込められていた。

 その四郎七がある春の夜、座敷牢を抜け出すと全裸になって、岡山の城下を走り回ったのである。この騒ぎを記録した岡山藩士の齋藤一興は、四郎七の行為を分析してこう書いた。

「藩が精力旺盛な若者に学問ばかりさせるから、勉強のし過ぎで、色欲の思いが内に鬱積して発狂するのだ」(『池田家履歴略記』)

 勉強ノイローゼである。江戸時代も後期になると、四郎七のようなノイローゼを生み出す程、武士の子弟は受験勉強に苦悩した。

 泰平の世になって、武士は武官であるよりも文官であることが求められた。そこで必要なのが学問である。寛政年間(1789~1800年)からは全国の藩に藩校が整備されて、諸藩の武士の子弟は藩校に通うことが義務づけられた。

 藩校の規則や規模は諸藩によって差があるが、大藩ほど厳しい勉強を藩士に強いた。水戸藩(茨城県)の例で見てみよう。

赤点を取ったら家禄の8割を没収という藩も!

 水戸藩士は10歳前後で城下にある私塾に通って漢文の読み方を勉強した。15歳になると藩校の弘道館に通う規則だったが、これには試験があって、それに合格しないと弘道館に入学できなかった。

 弘道館に入学することは藩士の義務である。22歳になっても弘道館の受験に失敗していると弘道館講習別局なる予備校に入れられたが、これは不名誉この上ない。

 かくて弘道館の受験目指して猛勉強が始まる。

 弘道館入学後は、午前中に儒学を学び、午後に武芸を学ぶ。そして優秀な成績の者は、毎年秋に行われる大試験を受けて、その成績が良いと出世できた。

 これが30歳まで続くというのだから厳しい。水戸藩士の子弟は、弘道館受験から良い役を得るために、厳しい受験戦争を勝ち抜かなければならなかった。

 水戸に近い千葉の佐倉藩でも同様の制度があったが、こちらは藩校の成績が悪いと知行が減らされた。知行とは武士の給料のことだから、これはもう必死になって勉強するしかない。

 その最も徹底したものが佐賀の鍋島藩である。藩士子弟は全員6、7歳から藩校に入学して、25~26歳まで勉強をさせられた。その間、厳しい試験制度があって、所定の合格点に達しない者は家禄(先祖代々の給料)の8割を没収された。

 成績が悪いと給料の8割がカット。家も滅びかねない受験地獄である。

黒船来航時の幕府を支えた受験エリートたち

 寛政6年、江戸は湯島の聖堂、世にいう昌平坂学問所で「学問吟味」なることが行われた。

 学問所は旗本や御家人など幕臣のための最高学府。「学問吟味」は学問所OBから人材を選ぶ試験で、今なら公務員試験にあたる。

 この試験で御目見得以上(旗本)の主席は遠山金四郎景晋(かげみち)、御目見得以下(御家人)の主席が太田直次郎だった。

 遠山景晋は500石の旗本だが、学問吟味で3,000石の旗本が就任する勘定奉行に抜擢された。その息子が江戸町奉行「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元。遠山の金さんは、受験エリートの息子だったのである。

 御目見得以下で首席だった太田直次郎も御徒士(足軽)から30俵加増されて勘定支配に出世し、長崎奉行所詰、大阪銅座詰などを歴任。銅の異名を蜀山というので、蜀山人なる雅号を用いた。文人、狂歌師で知られる太田南畝その人である。

 幕末になると、幕府の官僚はその多くが学問所の成績優秀者から採用されるようになった。5年に1度の学問吟味で、甲の成績を取ると上吏に取り立てられ、乙の成績なら相当の幕府役人に採用されたが、丙では役人になれなかった。

 黒船来航で難局した幕末の若年寄(政務次官)や奉行(局長)の多くは学問所の学問吟味(試験)で抜擢された者が多い。この試験制度のおかげで、幕末の幕府は優秀な人材を揃えることができたのである。

明治維新で一変!受験勝者たちの運命…

 さて、明治維新の直前、幕府は鎖国を止めて開国に踏み切った。それまでの価値観がひっくり返る時代になったが、受験地獄の価値も大きく変わった。

 それを象徴する人物が、後の海軍卿となった榎本武揚である。

 榎本武揚が学問所での学問を終えて「学問吟味」を受けたのは、開国の3年前にあたる嘉永5年(1852)。「学問吟味」の成績は残念ながら丙だった。この成績では役人になれないので、英語塾で英語を学んだ。時あたかも開国の嵐の時代――。

 榎本武揚は学問所では落ちこぼれたが、英語の勉強が功を奏してオランダ留学を経て、幕府海軍副総裁にまで出世した。

 開国後に悲惨なのは受験戦争を勝ち抜いた学問所のエリートたちである。昌平坂学問所に象徴される漢学の知識は役に立たなくなり、かわりに私立の洋学塾で学んだ者が、役人として出世した。

 かくて幕末の昌平坂エリートたちは、洋学を学んで出世する者を横目で見ながら明治維新を迎えた。学問所の秀才でありながら下級兵士として戊辰戦争で戦死したり、明治維新後に餅菓子屋になった者までいる。

 時代が大きく変わるときには、受験戦争の勝者はむしろ社会的敗者に落ちてしまう。この歴史的な事実は、現代の日本でも、もう一度見直しておく必要があるだろう。

▼「今週の話材」
著者 : 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター) 1949年、神奈川県に生まれる。日本大学芸術学部映画学科で映画理論を専攻。放送作家を経て、『やじうま大百科』(角川文庫)で雑学家に。「万年書生」と称し、東西の歴史や民俗学をはじめとする人文科学から科学技術史まで、幅広い好奇心を持ちながら「人間とは何か」を追求。著書に『「散歩学」のすすめ』(中公新書クラレ)、『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた サムライと庶民365日の真実』(講談社プラスα新書)などがある。
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