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今週の話材「桜餅」

桜の名所でもなかった向島で考案された「桜餅」の正しい食べ方は?

[ 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター)]

食の好みの洋風化が進んだとはいえ、桜の季節になれば「桜餅」、観光地土産といえば「○○饅頭」と、江戸時代に生まれた菓子はいまも私たちの生活の中で存在感を発揮している。今回は、そんな江戸生まれの名物の由来に迫る。

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日本中の観光地を饅頭だらけにした浅草名物「米(よね)饅頭」

 江戸初期の特産といえば浅草の「米饅頭」。いまやどこの観光地へ行っても饅頭だらけなのには理由がある。江戸時代の「上菓子は饅頭」だったので珍重され、それがいまも地方の観光地において惰性で続いているに過ぎない。惰性を伝統と呼ぶ人もいるが…。

 浅草「金竜山米饅頭」といっても、味はどうせたかが知れている。伝承によれば米饅頭は、慶安年間(1648~1652)に誕生した。3代将軍家光の治世も終わろうとして、由比正雪が謀反など企てていた頃、鶴屋の娘お米(よね)なる美女は饅頭製法に謀反していた。

 それまで饅頭の皮は小麦粉で作っていたが、お米は米の粉を用いた。で、「これは珍しい!」と大げさに騒いだのがいて、鶴屋は大繁盛となった。
 もっとも、ただ珍しいだけで饅頭のために連日列をなすほど江戸に甘党が多いとは思えない。

 突然、江戸中に下戸が増えたのには、むろん魂胆がある。それが証拠に、お米が嫁に行ってしまうと、

「あんな饅頭が食えるものか」

 と客足がパタリと減って、下戸は霧散霧消した。鶴屋も元文(1736~1741)の頃には没落し、米饅頭の名だけが唄や話の中に残っている。

桜並木のない向島で「桜餅」が江戸の名物になったわけ

 長命寺の桜餅の山本屋の元祖は、元禄4年(1691)、下総の銚子から来て、向島の長命寺の門前に住み込んだ。そこで花や線香を細々と売っていたが、8代将軍吉宗が浅草奥山に桜を植えてから、上野の花見の客が浅草まで足を伸ばすようになった。

 そこを見込んで山本屋の元祖は心機一転、花と線香売りから転業、桜餅を考案して売り出した。もとより長命寺付近の向島に桜など植えられてなかったので、非凡というか大胆に浅草の桜ブームにあやかろうというものであった。

 しかも、女房の美貌や娘の愛嬌で売ったので、餅に巻いた3枚の桜の芳香とともに江戸っ子の官能を刺激した。曲亭馬琴(1767~1848)が詳細に調べたところ、年間の売上は230両にものぼったという。

 さらに、2代目の長女おとよも美人だったので、桜の並木もないので江戸中の熊公八公が、

「どうだったい? 向島の花は七部かい、満開かい?」
「桜餅はいまが食べごろ」

 と筋道の通らない会話をするようになった。幕末のペリー来航時の老中だった阿部伊勢守まで同じ心境だったようで、せっせと花より団子で長命寺の桜餅に通った。

 そこで、今にいたる難問を阿部伊勢守が解いている。すなわち、

「桜餅の皮(葉)は剥いて食べるのか、それとも一緒に食べるのか?」

 その食べ方を殿様に折敷きの姿で尋ねる家臣に、殿様は桜餅を口に含みながら「カワをムイて食べる」。「はっはーっ」とばかりに家臣は皮を剥いて食べたが、殿様は川を向いて食べていた。

 隅田川の手前におとよが立っていたかもしれない。阿部伊勢守は、のちにおとよを向島の下屋敷に囲って、彼女の皮も剥いてしまったからである。

 明治になると正岡子規が山本屋の2階に下宿していたが、その娘に惚れられて、あわてて持参の古机だけつかんで逃げ出している。よほど美人だったと思うが、子規は生涯に一度のチャンスを棒に振ってしまった。
 後に人妻となった娘を子規は長命寺に訪ねて、

「葉桜の下で昔の人と餅を喰う」

 と相手を勝手に葉桜にして、挙げ句何か昔ワケアリの関係だったような強気とも見栄とも思える句を残している。すでにこの頃は長命寺付近にも桜並木が並んでいたとみえる。

 長命寺にはもうひとつ、桜餅の筋向かいに名物がある。

在原業平もびっくりポンな「言問(こととい)団子」の由来

 こちら業平朝臣が都鳥に「いざ言問(ことと)はむ」と詠んだ頃から開業しているように思いやすいが、明治維新の産物である。

 植木屋の外山佐吉なる老人が、維新のどさくさで生活不如意となり、堤の上にささやかな茶店を開き、自家製の団子を売った。爺さん、婆さんが差し出す団子は不人気で、どうにも売れない。せいぜい毎日やって来てくれるのは、長命寺内に隠遁している花城翁(かじょうおう)ぐらいなもので、ある日、店の閑散を見かねて花城翁、茶飲み話に、

「業平朝臣の故事に因んで、言問団子とでもつけたらば、人が珍しがるかも知れないね」

 と語り、その由来を戯文に作って、佐吉老人に与えた。

 老人は大した名案とも思わなかったが、せっかくなのでその文章を額に仕立てて店へかけておいた。すると、たまたま腰を掛けた客が、その額を仰ぎみて、餅をしみじみ噛んで、

「なあるほど、そういう古い由緒があったのかい。だからまずいのか…!」

 といって、お茶と団子のお代わりを命じて、しみじみとまずいことを有り難そうに食べた。

 その噂が明治初年の東京に流れ出し、江戸っ子のクセが抜けないから、

「業平朝臣が、その団子のこさえ方を授けていったのかい。えらいもんだね、お公家さんて、いろんなことを知ってるもんだね」

 と例の早合点と金棒引きで、江戸っ子の下戸は、向島へ行って言問団子を食わないと生き恥をかくようにまでなった。都鳥も驚いて空から墜落しそうな事実である。

▼「今週の話材」
著者 : 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター) 1949年、神奈川県に生まれる。日本大学芸術学部映画学科で映画理論を専攻。放送作家を経て、『やじうま大百科』(角川文庫)で雑学家に。「万年書生」と称し、東西の歴史や民俗学をはじめとする人文科学から科学技術史まで、幅広い好奇心を持ちながら「人間とは何か」を追求。著書に『「散歩学」のすすめ』(中公新書クラレ)、『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた サムライと庶民365日の真実』(講談社プラスα新書)などがある。
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