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今週の話材「麻薬」

いつから日本人は麻薬に溺れるようになったのか?

[ 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター)]

いまや日本の中高生の間にまで薬物汚染が広がっているという。日本人と麻薬のつきあいは古く、その歴史は縄文時代にまで遡る。世界最大のアヘン大国だったこともある日本と麻薬の関係は…?

いつから日本人は麻薬に溺れるようになったのか?

縄文人は大麻を吸っていた?

 日本人がはるか昔から入手可能だった麻薬は大麻である。いまから約1万年前の縄文時代の遺跡から、大麻で作った縄や布が出土する。大麻は縄文時代以来、繊維として日本人にお馴染みの植物だが、それを煙にして麻薬に使っていたかどうかが気になる。

 大麻はアジア大陸の北方地域から日本海をわたってきた。渡来ルート途上の北アジアの遊牧民は、古くから繊維の原料とする一方で、幻覚剤として使っていた。縄文人だけが麻を繊維としてのみ使ったと考えるほうが不自然で、麻薬として使った可能性もなくはない。

 考古学者の加藤晋平氏がいう。

 麻は繊維として日本にわたってきたと考えられるが、一方で幻覚症状を起こさせる麻薬としてわたってきたことも考えねばならないと思う(『古代日本海域の謎』より)

 とはいえ日本で大麻を麻薬として使ったという記録や文献はない。それでも江戸時代には大麻の幻覚作用は知られていたようだ。
 甲賀の忍家に伝わる古書『萬川集海』は“アホウ薬”なるものを伝えるが、これは「麻の葉と薄茶を用いる」とある。

 忍者は秘薬として大麻を使っていたが、麻薬として乱用するにはほど遠い。

大麻が引き起こした江戸の乱痴気事件

 唯一記録されている大麻事件は江戸の谷中で発生した。松浦静山の『甲子夜話』と村田春海の『錦繍舎随筆』が伝えているもので、寛政12年(1800)、谷中の妙伝寺(西光寺とも)で起きた。

 朝、寺の鐘が鳴らないのを不審に思った檀家の人が訪れ、寺をのぞいて驚いた。住職も、小僧も、寺男も全員が倒れ臥している。見回せば、仏壇の本尊から仏具、戸障子の類いまでがすべて打ち砕かれている。

 あわてて住職に駆け寄ると、どうやら死んではいない。熟睡である。声をかけ、何度も揺り動かしてようやく目を覚ました住職の発した言葉は、

「よく寝た。昨夜はおもしろかった」

 と満足げである。訪問者が「一体どうしたことだ」と室内を指さすと、住職は寝ぼけ眼であたりを見回すや、驚愕した。

 住職が語るところによると、事の次第はこうだ。

 寺の裏庭に生えている麻を見た飯炊きの男の子が、「麻の若葉はたいへん美味しいので田舎では喜んで食べます。江戸では食べないのですか」というので、住職は「それは、おもしろい」とばかりに料理させた。

 住職以下全員が「うまい、うまい」と麻をたらふく食べたが、間もなく頭がぼーっとしてきて、やがてむやみに腹立たしくなって、そのうち正気を失ってしまった。

 吸引した大麻は数分で作用するが、食べた場合は1時間ぐらいして効果を発する。麻の若葉を食べた者全員で、寺中を走り回り、経文を引き裂き、道具類を片っ端から打ち壊す乱痴気騒ぎを繰り広げたと思われる。

 正気に戻った住職は「麻の葉の恐ろしい毒に今さら震えあがった」と村田春海は書いて筆を置いている。

 日本人は大麻の幻覚作用を毒として恐れ、積極的に使うことはなかったようである。

維新後、日本は世界最大のアヘン大国に!

 アヘンの原料となるケシは、古くから日本に渡来している。足利義満の時代にインドから津軽地方に伝来したといわれるが、そのためケシは「津軽」と呼ばれた。だが、こちらも大麻と同じく麻薬として用いた形跡はない。

 日本人がアヘン問題と遭遇するのは幕末である。西欧列強が右手に聖書、左手にアヘンでアジア一帯を侵略。英国がアヘン戦争で中国に勝利して、中国はアヘン漬けとなった。

 文久2年(1862)、幕府初の貿易船で中国を訪れた肥前小城藩士納富介次郎は上海でアヘン中毒者の群れを見てこう書いた。

 清国(中国)既に洋夷の術中に陥り、邪教に化し、アヘンに溺るる。ああ危ないかな(『上海雑記』より)

 こうしたショッキングな前例を目撃したためか、日本ではアヘン中毒者が記録されていない。

 ところが明治維新とともに日本は一転して世界最大のアヘン大国にのし上がった。大阪府茨木市にはアヘン王と呼ばれる人物までいて、その名を二反長(にたんおさ)音蔵という。ヤクザの親分でもなければ死の商人でもない。報国の信念で私財を投げ打って生涯をケシの栽培とアヘン採集に尽くした傑物である。

裏切られた“アヘン王”の善意

 そもそもの発端は明治28年の日清戦争の勝利で台湾を支配下に置いたことにある。台湾にはおびただしい数のアヘン中毒者がいて、日本政府はその統治に苦慮した。

 そのとき後藤新平は、台湾の中毒者だけに鑑札を与えてアヘンを売り、それ以外の者には厳禁する政策を建白した。中毒者が全員死ねば、アヘン中毒は台湾から消えるという計算である。

 そのためには国内でアヘンを製造して、広く中毒者に分け与えなければならない。これを新聞で読んだ二反長音蔵は、ケシの栽培とアヘン生産に生涯を捧げることにしたのである。

 当初アヘン狂と嘲笑され、後にアヘン王と仰がれた二反長の奔走のおかげで、昭和初期には日本全国にケシ畑が広がった。大阪平野、近畿一帯から遠く埼玉まで、初夏になると白いケシの花で雪景色のようになった。
 その頃、世界で生産するヘロインの約半分を日本が生産していたほどである。

 ところが二反長の善意、アジア各地のアヘン中毒者に一代限りで配布するという初期の目的は、国によって裏切られた。日本軍の侵略先で軍費を調達するために密売されたのである。

 日中戦争のかなりの部分をアヘンの密売利益でまかなっていたという(江口圭一著『日中アヘン戦争』より)。どんな善意で始めたアヘン栽培も、それが巨大な害悪に転じるのは、麻薬の麻薬たるところだろう。

 それはともかく、これほど膨大な量のアヘンを採集した日本の農民たちは、アヘンに溺れることがなかった。アヘン採集をする農民が自殺する時は、首を吊るか、ネコイラズなどの毒を飲んだ。アヘンを使えば、小指の先ほどの量で瞬時に死ねるのに、である。

 二反長音蔵の伝記を書いた子息もこう証言している。

 阿片をこれほど多量に作りながら1人も中毒患者が出なかったということは意外というより不思議な事実だった(二反長半<なかば>著『戦争と日本阿片史』)

 長い歴史のなかで、なぜか日本人は麻薬に溺れることがなかった。有名芸能人が逮捕され、脱法ハーブで気を失った運転手が車を暴走させる現代のほうが、日本の歴史上、よほど珍しいのだ。

▼「今週の話材」
著者 : 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター) 1949年、神奈川県に生まれる。日本大学芸術学部映画学科で映画理論を専攻。放送作家を経て、『やじうま大百科』(角川文庫)で雑学家に。「万年書生」と称し、東西の歴史や民俗学をはじめとする人文科学から科学技術史まで、幅広い好奇心を持ちながら「人間とは何か」を追求。著書に『「散歩学」のすすめ』(中公新書クラレ)、『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた サムライと庶民365日の真実』(講談社プラスα新書)などがある。
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