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今週の話材「忠臣蔵」

大石内蔵助をヒーローにした「赤穂浪士の討ち入り」はどうして起きたのか?

[ 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター)]

浄瑠璃に歌舞伎、映画にドラマに繰り返し描かれる「赤穂浪士の討ち入り」。しかし、その発端となった松の廊下の刃傷沙汰については不明なことが多い。そもそも浅野内匠頭はなぜ、吉良上野介に斬りつけたのだろうか?

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刃傷沙汰の原因は、じつは吉良上野介ではなかった?

 12月14日といえば赤穂浪士の討ち入りがあった日。元禄15年(1702)のこの日、亡き主君の無念を晴らすべく、赤穂浪士47名は本所松坂町の吉良邸に討ち入った――。いまでも大石内蔵助を筆頭に赤穂義士らの人気は絶大で、12月14日には全国の赤穂浪士ゆかりの地で義士祭が執り行われる。

 ところで事件当時、本所に「松坂町」という町名は存在しない。当時の本所は数年前から武家屋敷が建つようになった新開地で、それまでは度々の水害で空き地になっていた。「松坂町」という呼び名は、赤穂浪士の討ち入りの後、元禄16年(1703)11月の大火で類焼した後、初めて町地を開いて「松坂町」と名付けた。

 この赤穂浪士の義挙(吉良側からは暴挙)は、記録を見る限り幕府は黙認したとしか思えない。

 本所林町(現・立川)に点在していた赤穂浪士の動向は種々入っていただろうし、大石内蔵助が江戸に入る前に拠点としていた武蔵・川崎宿に近い下平間の軽部五兵衛家は、肥料にする下肥を掃除するため、浅野家のみならず吉良家にも出入りしていた。

 同家は後北条氏時代からの名門で、幕府は知らないはずがない。当然、監視していたはずである。いまもこの地の称名寺では12月の14日に義士祭を執行している。

 不可解だらけの事件なのだが、そもそも浅野内匠頭の刃傷の原因からして、その真意を幕府は伏せたとしか思えない。いってみれば、幕府の失態が巻き起こした事件なのである。

 誰も指摘しないが、勅使ご馳走役として浅野内匠頭と相役になったのは伊達左京亮(さきょうのすけ)だった。ここに原因があって、水と油、先祖代々不倶戴天の敵同士を相役にして、事をあたらせようとしたことに無理があった。

「浅野家」と「伊達家」は、誰もが知る「不通」大名だった!

 というのも、大名同士の中には「不通」の関係というのがある。松方冬子氏の研究によると、たとえ路上ですれ違っても挨拶をしないし、江戸城の大名の詰め所で同席しても口も利かない。そういう関係の「不通」、ひらたくいえば冷戦状態の大名同士があった。

 原因は「関ヶ原合戦のとき敵対した」とか「文禄慶長の役」で「卑怯なふるまいで苦しめられた」とか古い恨みなのだが、それが続いている大名家が何家もあった。その代表的な対立関係にある「不通」大名が、「浅野家」と「伊達家」なのである。

 伊達家にいわせると、豊臣政権の下で浅野家に「絶交状」を突きつけている。「絶交状」は11の理由を挙げているが、そのうちのひとつふたつ挙げてみると――。

「浅野長政が秀吉の命令があったわけでもないのに、伊達政宗の知行を全部秀吉に進上するという書き付けを無理矢理書かせた」
「文禄慶長の役の朝鮮の戦場で、浅野長政の叱責で伊達政宗は「臆病」との評判をもらった」

 などなどである。

 その喧嘩状態にある浅野家の分家である浅野内匠頭と伊達家の同じく分家の伊達左京亮を組み合わせたのだから、2人は怒らないわけはない。おそらく口も利かずにご馳走役の任務をしていたに違いない。

 どうしてこんな馬鹿な組み合わせをしたのか?

 事件が起きた元禄年間は、「不通大名」間を和睦させることに幕府は力を入れていた。
 元禄11年(1698)には「不通」だった前田家と細川家が和睦し、岡山の池田家は元禄3年(1690)頃から土佐山内家や水戸徳川家と和睦してゆく。

 そんな中で元禄14年(1701)、時の将軍綱吉に重用されていた林大学頭(はやしだいがくのかみ)は、この正月に老中になったばかりの稲葉正住に、

「なぜ浅野家と伊達家は代々不通なのか」

 と尋ねている。その年の3月14日に浅野内匠頭の刃傷事件が起きるのである。

幕府の和睦勧告にキレた浅野が吉良にキリつけた?

 浅野と伊達の「不通」は幕閣には常識で、それを強引に和睦させるために勅使ご馳走役を浅野内匠頭と伊達左京亮に命じたとしか思えない。

 支藩同士から徐々に和睦を、と考えたのだろう。文治主義を看板に掲げる五代将軍綱吉の時代としては、ありえそうなことである。

 とはいえ当の大名にとっては、先祖代々の喧嘩の相手と無理矢理同役にされるのは恥辱の至りである。たとえ5万3,000石の小藩であろうと、いや、それであればこそ怒り心頭に発したのではあるまいか。「小藩とて軽視しおって…」と。その浅野内匠頭に、

「いつまでも古い話でいがみ合う武張ったご政道はいかがかと思う。時代も太平となって久しく、たとえ小藩といえども、否、支藩ゆえにこそ親藩を和睦させるくらいの思慮がなければ、これからの世は…」

 くらいのことを吉良上野介は言ったのかも知れない。記録のひとつには、浅野内匠頭が斬りつけるとき、

「上野介、ただいまの雑言覚えそうろうか」

 と叫んだというのもある。

 特にこの元禄14年は、関が原合戦の100回忌の2年後、あと数年後に豊臣家の90回忌がやってくる。幕府も元豊臣大名やその浪人の対処に緊張していたようで、江戸に中町奉行所なるものを増設している。

 浅野内匠頭の刃傷事件の対処も失敗だった。こともあろうに伊達家の支藩・田村右京大夫(うきょうのだいぶ)家で切腹させたのだから、家臣団が激昂するのも無理はない。

 もうひとつの傍証として、五代将軍綱吉が亡くなった後、老中を辞した稲葉正住は、浅野と伊達の和睦を試みている。むろん見事に失敗した。

 両家は幕末まで和睦しなかったのである。

▼「今週の話材」
著者 : 古川愛哲<ふるかわ・あいてつ>(フリーライター) 1949年、神奈川県に生まれる。日本大学芸術学部映画学科で映画理論を専攻。放送作家を経て、『やじうま大百科』(角川文庫)で雑学家に。「万年書生」と称し、東西の歴史や民俗学をはじめとする人文科学から科学技術史まで、幅広い好奇心を持ちながら「人間とは何か」を追求。著書に『「散歩学」のすすめ』(中公新書クラレ)、『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた サムライと庶民365日の真実』(講談社プラスα新書)などがある。
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